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坂本龍馬の子供時代について!軟弱な子供時代だったのは本当なの?

坂本龍馬はかなり遅くまでおねしょをしていたと有名です。
我が家の息子も今年小学生になるのですが、未だに夜のおむつは必需品です。

そんなことから坂本龍馬の子供時代やおねしょについて興味があります。
一体坂本龍馬はどんな子だったのでしょうか?

家族構成

1836年、現在の高知県高知市の下級武士であった坂本家の次男として生まれました。
商家出身でしたが、分家の際に財産を多く貰い非常に裕福な家庭でした。

龍馬という名前は、母が龍が天を飛ぶ夢を見たことから付けられたとも言われています。

兄弟は5人いて、その末っ子として生まれました。
龍馬が生まれた当時、長兄(権平)は21才、長女(千鶴)は18才、次女(栄)は15才、三女(乙女)は3才でした。

幼少期の性格

龍馬が生まれた頃は乙女以外の兄弟は皆大人で、お手伝いさんも多く、末っ子のため大変可愛がられたようです。

自分では何もしなくても周りの大人がやってくれましたから、のんびりと育ちました。
兄弟も年齢が離れていたので兄弟喧嘩のようなものもなく、まるで一人っ子のように育てられたのでしょう。

そんなふうに大事に育てられたので、小さい頃は虚弱だし、のろまだし、賢くもなかったのです。

しかしこのような環境では大器晩成な子に育つと言われています。

おねしょについて

龍馬はおねしょをかなり年齢がいってもしてました。
諸説ありますが10歳までとか、15歳になるまでなど。

おねしょを遅くまでする人は大器晩成型のようです。
理由はおねしょを遅くまですると、小さい頃は成長が遅いですが、その後の成長期間が長くなるからです。

そして25歳までその成長は続きます。

脳科学評論家の澤口俊之氏によると、

『遅延発達する脳を持つ人ほど知的能力が高い。
普通の知能の人より5歳ほど脳の発達が遅い。
坂本龍馬の少年時代は「幼さ、おねしょ、泣き虫」が目立った。(要約)』
「澤口俊之オフィシャルブログ」より

遅くまでおねしょをする人は大器晩成型とする説と普通の人に育つ説があります。
おねしょをしていたからと言って必ずしも龍馬のようになるとは限りません。

今の時代はむしろおねしょをすることにより自己肯定感が下がってしまうことが心配です。

そう考えると龍馬は例え遅くまでおねしょをしても自己肯定感がさがらないような言葉を周りの大人たちから受けていたのだろうと推測されます。

もし遅くまでおねしょをする子なら、澤口俊之氏の説が正しいのなら、あとは自己肯定感を上げる言葉が龍馬にような大器晩成型の子を作るのかもしれませんね。

後妻の影響

龍馬が10歳の時に実母が亡くなります。
その後は姉の乙女に育てられますが、実母の死後1年後に後妻となった伊與の影響も大きく影響します。

特に伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)が竜馬に影響を与えました。
竜馬は姉の乙女とともに土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れました。

そこでは長崎や下関の珍しい話を大変興味深く聞きました。
そして世界地図や日本にはない様々な輸入品を見て日本以外の世界への思いを強くしていきました。

剣術道場でその才能が開花していく

14歳のころから下士階級の武士が習う小栗流の剣術を学び始めました。
剣術のほかにも馬術や水泳も習い始めます。

剣術道場は日根野道場というところでした。
朝から晩まで熱心に稽古に励みました。
そして剣術があっという間に上達していくのです。

龍馬の才能が開花していきました。

姉乙女について

姉乙女はどのような人だったのでしょうか?

身長は175cm、体重は110kgもあったようです。
とても大柄な女性でした。

家事は女中にまかせ、熱心に稽古ばかりしていました。
稽古も剣、馬、弓などの武芸だけではなく、琴、舞踊、和歌など芸術面までマスターするほどの才能豊かで男気のある人でした。

12歳から通い始めた楠山庄助の塾は、落ちこぼれになり追い出されてしまいます。
そんな龍馬を姉乙女は学問や武芸、精神面から支えたのでしょう。

また姉乙女はいつまでもおねしょをして、塾ではいじめられて泣いて帰ってくる龍馬が心配でした。
その弱さを克服するため、辛抱強くその精神を鍛えていきました。

その甲斐あって龍馬のおねしょも直り、明るく前向きな少年へと育っていきます。
やはり英雄の陰には母や母の代わりとなる女性の存在が欠かせませんね。

最後に

龍馬は14歳くらいまで大人なしく泣き虫でした。
でも姉乙女を始め、多くの大人に支えられたのでしょう。

その結果自己肯定感を失わず、その才能を開花させることができました。
そのためには「母=強い存在」でなければならないとひしひしと感じました。