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西郷隆盛の子供時代について!子供時代からやっぱり凄かった?

来年2018年の大河ドラマは西郷隆盛が主演になります。
その大きな体のように器も大きな人だったと想像できます。

そんな西郷隆盛を作った子供時代についての記事になります。

家族構成

西郷隆盛の幼少期の名前は「小吉」と言います。
7人兄弟の一番上の兄でした。
下には弟3人、妹3人がいました。

貧しかったですが兄弟仲は大変良かったようです。
その他に父と母、祖父と祖母の11人の大家族でした。

6歳から学校へ通う

父は武士でしたが、下級武士で家は貧乏でした。
しかし武士の子だったので、6歳くらいから藩の学校に通い始めます。

水泳や相撲が上手で、剣術は示現流を学びました。
運動神経が良かったのですね。

藩の学校でも読み書きはしましたが、自身も幼少期から読書が好きだったようです。
知的欲求が強かったのだと思います。

子供の頃の風貌

子供の頃から体が大きい子でした。
大人の写真もそうですが、子供の頃から大きい目玉をしていました。
言葉も少なく黙っているし、行動ものっそりしていました。

そのため「大目玉ののろ吉」と呼ばれていました。
そんな子供でしたが、近所の大人からは子供とは思えない落ち着きがあったため、将来は大物になるのではと噂されていたようです。

子供時代の武勇伝

ある日他の友達と虫取りに行きました。
普通網を持っていくのですが、西郷は石臼を持って行きました。

もちろん虫は捕まえられず泣いて帰ってきました。
なぜそんなものを持っていたのか不明ですが「やはり天才肌だった!」と思ってしまいます。

父の方針

西郷の父親は毎日毎日西郷にこう言い聞かせていました。

『あの火を噴く桜島に負けない大きな人間になれ』と。

父親は下級武士でしたが、志は大きな人でした。
西郷の類い希なる才能を確信していたのかもしれません。

右腕に怪我をして学問の道へ方向転換

11歳の時、お宮参りをしました。
その際に弱い者いじめをしていた子と喧嘩になり、右腕に怪我を負います。
そのため剣術を続けることができなくなってしまいました。

西郷は大変落ち込みます。
しかしお寺の和尚さんに剣術ばかりが武士の道ではない。
学問にもっと励みなさい、と説得されました。

西郷はその言葉を受け入れ学問に力を入れていきました。

西郷隆盛が受けた「郷中教育」について

「郷中教育」の概要

幼少期は薩摩藩の師弟教育である「郷中教育(ごじゅうきょういく又はごちゅうきょういく)」を受けました。

「郷中教育」とは異年齢の集団での教育です。
例えば田んぼの用水路を年上の子がまず飛んで見せます。
でもまだ小さい子は怖くて飛べません。
すると年上の子は「泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」とせかします。

これは困難なことに出会ったもとにかく行動に移せ、という薩摩人の思考です。
「郷中教育」にはそんな思想が含まれています。

また鹿児島県の神社の掲示板には「①負けるな②嘘をつくな③弱い者をいじめるな」という言葉が書いてあります。
この言葉も「郷中教育」です。

「郷中教育」の生まれた理由

薩摩には鶴丸城というお城があります。
しかしお城と言ってもりっぱなお城ではなく、単純な屋形作りでした。

それはお城の裏に山があり要塞の役割を果たしていたからですが、人にこそ防御の力があるとしたからでした。
そのため教育が大切にされ「郷中教育」が薩摩藩に浸透していきました。

その結果本州からほど遠い地域から多くの英雄が輩出されたのです。

「郷中教育」の時間割

郷中は『稚児(ちご)』と『二才(にせ)』に分けられました。
『稚児』は6~15歳、『二才』は16~25歳です。

『稚児』の一日のスケジュールは次のようになります。

朝食前は郷中の先生の家で本読をする。
帰宅後は本読みの練習と家事手伝い。朝食後は神社の境内などで相撲や馬追いなどで体を鍛える。

午後は先生や先輩の家で読み書きの復習。
それから稽古場で剣や弓などの武術の練習。

このように毎日少し年齢の異なる子供達と行動を共にしました。
そして勉学、武芸、躾、体を鍛える、さらに「①負けるな②嘘をつくな③弱い者をいじめるな」という教えを身につけていきました。

最後に

西郷隆盛はもともと大きい器をもって生まれた人でした。
さらに「郷中教育」という素晴らしい教育を受け、また父親から大きな志を持つことを教えられました。

そして学問に励みました。
天才は持って生まれた素質だけではなく、小さい頃の思想や努力も大切なのだと実感しました。

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